![]() この作品は歌舞伎界の最長老であった13代目片岡仁左衛門の84歳から90歳でなくなるまでの記録。製作に7年を歳月を費やし舞台や楽屋、稽古場、氏の貴重な芸談から私生活に至るまでをその芸の深さと人間としての魅力を余すところなく捉えている。 |
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| 映画「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」について | ||||||||||||
| 羽田澄子 | ||||||||||||
| 仁左衛門晩年の記録 | ||||||||||||
| 13代目片岡仁左衛門さんは1903年(明治36年)生まれ、2歳で初舞台を踏み、1994年(平成6年)90歳で亡くなった。最後まで現役の役者であった。 映画「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」は歌舞伎界の最長老であった仁左衛門さんの、84歳から90歳で亡くなるまでの舞台、芝居の稽古や指導、芸術や生活など折にふれて記録しまとめたものである。 なぜこのような作品を作ることになったのか。それは、1982年(昭和57年)に国立劇場の作品である『管丞相片岡仁左衛門』を私が作ったことから始まった。その時、仁左衛門さんは『菅原伝授手習鑑』の「菅丞相」を演じておられたが、同時に座頭の役者として、芝居全体に目を配っておられた。その様子を撮影しながら、私は仁左衛門さんの芸と人柄に強く惹かれることになったのである。仁左衛門さんはその時すでに78歳になっておられたが、このときの「菅丞相」の演技は、空前絶後と絶賛されるものとなった。 |
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| 若鮎の会 | ||||||||||||
| 撮影は1987年(昭和62年)6月、大阪「中座」で公演中の『伊賀越道中双六』の「沼津」から始まった。仁左衛門さんが「平作」、孝夫さんが「重兵衛」、秀太郎さんが「お米」。この時孝夫さんは初役で、仁左衛門さんが稽古をつけると聞き、それを撮りたいと思ったが、残念ながら撮影できる状態になかった。せめて舞台だけでもとの思いからはじめたことであった。この年の夏には上方の役者グループ「若鮎の会」の人たちに仁左衛門さんが稽古をつける機会があった。10月には国立劇場で『紙子仕立両面鑑』を仁左衛門さんの指導で上演する。間に「芸談をきく会」(十数人のファンが作った自由な集まり)もある。このあと6年にわたる撮影が続くことになった。ロケの回数は60回ほどになり、膨大なフィルムが回った。 仕事を始めるとすぐに、これが通常の映画作品のスタイルに収まらないことがわかった。私は覚悟を決めた。不特定多数を想定する作品ではなく、関心のある人が心行くまで見られるもの。仁左衛門さんの芸と人を充分に記録し、残せるものにしようと。 84歳から88歳まで撮った段階で、各々1時間半あまりのものを5本まとめた。「若鮎の巻」「人と芸 上・中・下」「孫右衛門の巻」の5部作である。1992年(平成4年)に岩波ホールで公開された。そして思いがけず、多くの人たちの支持を受けたのである。 |
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| 最後の歌舞伎役者 | ||||||||||||
| ほとんど視力を失っておられた仁左衛門さんは、これらの作品をじっと、聞いて観てくださった。「悪くなったのが目でよかった。耳が聞こえなくなったら芝居ができない」と言われていたが、その舞台は目の悪さをまったく人に気づかせないものであった。5部作完成後も仁左衛門さんは舞台に立っておられた。私たちも撮影を続けた。それは90歳でなくなるまで続いた。日常生活での不自由な姿を知るものにとって、舞台の仁左衛門さんの姿は信じがたい美しさと覇気に満ちたものだった。最後の2年余りの記録をまとめたものが「登仙の巻」である。登仙とは宋の詩人、蘇軾の詩「前赤壁の賦」の中にある言葉で,仙人になって天に昇ることを意味している。 このような作品を作ることが出来たのは、何年にもわたる「芸談をきく会」と仁左衛門さんとの親しい関係があったからである。そして松竹株式会社、国立劇場の理解と協力があったから、伝統芸能の世界をこれだけ撮影することが可能になったのである。 殊に5部作完成後、仁左衛門さんの私たちに対する信頼感は絶対的なものになった。私たちは黒子のように仁左衛門さんの身近にあって撮影することが出来たのである。仁左衛門さんはその年代、育った環境から、歌舞伎役者らしい役者と言える最後の人であったと思う。 |
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13代目 片岡仁左衛門 略歴 |
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| 13代目 片岡仁左衛門 本名・片岡千代之助。屋号は松島屋。11代目 片岡仁左衛門の三男。山田小卒 |
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| 1903年 | (明治36年) | 東京に生まれる | ||||||||||
| 1905年 | (明治40年) | 2歳の時に本名で京都南座で初舞台を踏み、1912年(大正元年)に創設された片岡少年劇で活躍する。 | ||||||||||
| 1924年 | (昭和4年) | 歌舞伎座で4代目 片岡我當を襲名 | ||||||||||
| 1932年 | (昭和7年) | 新宿新歌舞伎座で青年歌舞伎を結成、1938年(昭和13年)の解散まで座頭をつとめた | ||||||||||
| 1939年 | (昭和14年) | 関西歌舞伎へ移る | ||||||||||
| 1951年 | (昭和26年) | 13代目 片岡仁左衛門を襲名 | ||||||||||
| 1962年 | (昭和37年) | 衰退していた関西歌舞伎を守るため、大阪文学座で「仁左衛門歌舞伎」と題する自主公演をうつ。以降大阪で計5回上演し、関西歌舞伎の復興に多大な貢献をした | ||||||||||
| 1966年 | (昭和41年) | 歌舞伎座で演じた『廓文章(吉田屋)』の伊左衛門が絶賛される | ||||||||||
| 1972年 | (昭和47年) | 重要無形文化財に指定され、芸術院賞を受ける | ||||||||||
| 1981年 | (昭和56年) | 国立劇場で演じた『菅原伝授手習鑑』の「菅丞相」が高い評価を受ける この頃から緑内障を患い、視力をほとんど失ったが、現役歌舞伎役者として舞台に立ち続けた |
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| 1994年 | (平成6年) | 3月26日、京都の自宅で没。満90歳であった | ||||||||||
映画「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」 【作品紹介】 |
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| 第1部 | 「若鮎の巻」 | (1時間42分) | ||||||||||
昭和62年の夏、上方の若手役者グループ「若鮎の会」が、8回目の自主公演を行うのにあたり,仁左衛門が監修と演技指導をしたときの記録。日頃は脇役しかつとめる機会のない若手役者たちに請われて、仁左衛門が実に丁寧に指導を引き受けている。彼らの出し物は『鬼一法眼三略巻(きいちほうがんさんりゃくのまき)』の「一条大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」と『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』の「吃又(どもまた)」。この2つはともに仁左衛門の父、11代仁左衛門によって「片岡12集」に加えられた作品。 『鬼一法三略巻』は、もともとは全5段からなる人形浄瑠璃。その4段目が独立して上演されたのが「一条大蔵譚」である。平清盛の専制政治のもと、一条大蔵卿長成が世をあざむくために阿呆のふりをして平家調伏に心を砕くというもの。 『傾城反魂香』の「吃又」の主人公は、うまれついてのどもりの絵師、又平(またへい)。師匠の土佐将監光信(とさのしょうげんみつのぶ)から土佐の姓を貰いたいが、将監はどもりを理由に許さない。絶望した又平夫婦は自殺を覚悟し、この世の思い出にと将監の庭の手水鉢に自画像を描く。その絵の見事さを見た将監は又平に土佐の姓を与えるという物語。岩佐又兵衛の伝説を近松門左衛門が人形浄瑠璃のために書いたもの。 7月29日に稽古の1日目が京都嵯峨の片岡家にて始まる。 「公家言葉は難しい。浄瑠璃を勉強しないとね」と語る仁左衛門。 8月7日、稽古の5日目、大阪松竹浪速座別館にて。テープではなく、生の演奏での稽古になる。我當も指導を手伝っている。時折「違うんだなー」という表情を見せる仁左衛門。 8月8日、大阪府立労働センターにて。午前中は舞台稽古。午後、いよいよ本舞台が始まる。 |
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第2部 |
「人と芸の巻 上巻」 |
(1時間34分) |
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仁左衛門さん、84歳から88歳までの折々の舞台、芸談、生活を記録したもの。 昭和62年6月、大阪南座での『伊賀越中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』の「沼津の場」で仁左衛門は平作を演じた。 |
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| 平作 | 仁左衛門 | |||||||||||
| お米 | 秀太郎 | |||||||||||
| 十平衛 | 孝夫 | |||||||||||
| 義太夫 | 竹本喜太夫 鶴澤寿治郎 |
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| 8月、京都嵯峨の自宅にて、毎朝、神仏に祈る仁左衛門の姿。9代目仁左衛門が作った8代目仁左衛門の人形にも朝の挨拶をする。不自由になってきた目のことを語る仁左衛門。10月、東京、国立劇場にて『紙子仕立両面鑑(かみこじたてりょうめんかがみ)』の「大文字屋(だいもんじや)」の舞台。萬屋助六と遊女揚巻(あげまき)の心中事件をもとにした浄瑠璃や歌舞伎が多く作られたが、この浄瑠璃が最も実説に近いものの一つと言われる。上中下3巻の下巻「大文字屋」が、明治になって、11代目によって歌舞伎化された。上方歌舞伎独特の味わいを伝えている。今回の舞台は仁左衛門が演出し、助右衛門を演じた。 10月2日、舞台稽古1日目。仁左衛門の細かい指示が飛ぶ。 |
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| 助右衛門 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 権八 | 我當 | |||||||||||
| 妙三 | 小伝次 | |||||||||||
| お松 | 秀太郎 | |||||||||||
| 栄三郎 | 延若 | |||||||||||
| 助六 | 福助 他 | |||||||||||
| 義太夫 | 竹本喜太夫 鶴澤寿治郎 |
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| 10月3日、稽古2日目。10月24日、本舞台。 10月11日、「芸談をきく会」の集まりに顔を出す仁左衛門。12月の顔見世での『寿曽我対面(ことぶきそがたいめん)』で工藤祐経(くどうすけつね)を演ずるので、話題がそのことにおよぶ。 『寿曽我対面』は元禄10年、初代市川団十郎の作。工藤祐経に父を討たれた曽我十郎祐経(そがのじゅうろうすけつね)と五郎時致(ごろうときむね)の兄弟は、工藤の館を正月に訪れる。小林朝比奈(こばやしあさひな)は兄弟を工藤に対面させる。工藤は富士の裾野の巻狩の総奉行を勤めおおせたら討たせてやると約束して別れる。 12月、京都南座の顔見世『寿曽我対面』 |
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| 工藤祐経 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 曽我十郎 | 扇雀 | |||||||||||
| 曽我五郎 | 富十郎 | |||||||||||
| 小林朝比奈 | 我當 | |||||||||||
| 鬼王新左衛門 | 孝夫 | |||||||||||
| 近江小藤太 | 東蔵 | |||||||||||
| 八幡三郎 | 智太郎 | |||||||||||
| 秦野四郎 | 孝太郎 | |||||||||||
| 喜瀬川亀鶴 | 浩太郎 | |||||||||||
| 化粧坂の少将 | 秀太郎 | |||||||||||
| 大磯の虎 | 雀右衛門 他 | |||||||||||
この日、仁左衛門は、京都南座の顔見世に連続35回の出演記録を作り、表彰される。舞台後、楽屋でテレビ局の取材に受け答えする仁左衛門。また同日、昭和28年より片岡家の番頭を務めてきた伊藤友久も歌舞伎界への貢献を認められ、表彰された。 |
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第3部 |
「人と芸の巻 中巻」 |
(1時間41分) |
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| 昭和61年1月、東京歌舞伎座の楽屋にて。2月に演じる『菅原伝授手習鏡(すがわらでんじゅてならいかがみ)』での台詞を練習している。『菅原伝授手習鑑』は、菅原道真流罪事件を素材にした時代浄瑠璃。1月は、京都南座に続いて工藤を演じる。 2月、『菅原伝授手習鑑』「学問所」「道明寺(どうみょうじ)」の舞台稽古が始まる。舞台での動きを、目にたよらず体で覚えようとする仁左衛門。 「道明寺」は、流罪地の九州へ向かう菅丞相が、途中警固の役人輝国(てるくに)の配慮で、伯母の覚寿の館に滞在中、時平方の手の者によって誘拐暗殺の危機に陥いるというくだり。 |
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| 菅丞相 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 輝国 | 福助 | |||||||||||
| 苅谷姫 | 秀太郎 | |||||||||||
| 覚寿 | 梅幸 | |||||||||||
| 源蔵 | 羽左衛門 他 | |||||||||||
| 義太夫 | 竹本綾太郎 鶴澤正一郎 竹本米太夫 野沢松三郎 |
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2月7日、「芸談をきく会」の集まり。 4月、舞台がないのでのんびりと過ごす仁左衛門。うなぎ屋とどぜう屋へ行ったりする。埼玉県大宮のソニックホールの舞台開きで上演される『寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)』の翁をたのまれ、稽古する。松本でのご贔屓の集まりに参加する。旅先でも神仏への祈りを欠かさない仁左衛門。 客好きの仁左衛門。「芸談をきく会」の秋山加代を相手におしゃべりに花を咲かす。23歳の時に、それまで書きためた短編小説をまとめた本『千代之助集』を200冊刷って、親しい人たちに配った話をする。本人の手元には1冊だけが残っている。文章を書くのが好きな仁左衛門は、たのまれると必ず自分で書く。 5月、東京歌舞伎座での『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の「花渡しの場」で蘇我入鹿を演じる。 |
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| 入鹿 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 大判事 | 吉右衛門 | |||||||||||
| 定高 | 芝翫 他 | |||||||||||
| 義太夫 | 竹本清太夫 豊澤時岩 |
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列車や電車に乗るのが好きな仁左衛門。東京での住まいである高輪のマンションには地下鉄で帰る。 6月26日、歌舞伎座の楽屋にて。朝日新聞社から出版された自分の写真集を手にする仁左衛門。このページには何が載っているのか、説明に耳を傾ける。写真展の会場にも夫人と足を運ぶ。 京都、祇園の芸妓玉木里春が仁左衛門を語る。聞き手は「芸談をきく会」の秋山加代。 8月、片岡家のお盆。仁左衛門にとってお盆はとても大切な行事である。お迎え火の予告をするために、昼のうちにお墓参りをする。「今夜7時にお迎え日を焚きますので、皆様どうぞおいでください」お迎え火の予告とは珍しいですねと質問を向けると「不意にお迎え日を焚いては、ご先祖様も慌てられるかもしれない。お出かけの支度のご都合もおありでしょうから」と答える。家族が祭壇をしつらえてお供物をする。自ら祭壇にろうそくを立てる仁左衛門。そしてお迎え日を焚く時間がやってくる。 |
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第4部 |
「人と芸の巻 下巻」 |
(1時間45分) |
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| 話し好きの仁左衛門。「芸談をきく会」での風景。最初の話題は『東海道四谷怪談』の怖さについて。本当に怖い演出についての自説を披露。そして、10歳になる時に父から『近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)』の猿廻し与次郎を教えられたときのことを語る。 仁左衛門に近い人たちが、仁左衛門を語る。番頭の伊藤友久。京都の自宅の膨大な歌舞伎の資料の前で。 長男・片岡我當。歌舞伎座の楽屋にて。昭和30年代に、関西の歌舞伎が衰退した時、「仁左衛門歌舞伎」をやった時のエピソードを紹介する。 次男・片岡秀太郎。俳優座劇場(自作の舞台『そうでしょうか』の初日)にて。父として、役者としての仁左衛門の魅力を語る。 三男・片岡孝夫。東京の自宅にて。子供の頃舞台で眠くなってしまい、叱られた思い出を話す。 五女・片岡静香。演劇集団「円」の楽屋にて。家庭での父のこと。目が不自由で、日常生活に不便なことも多いのに、まったくかんしゃくを起こしたりしない、我慢強さを語る。 夫人・片岡喜代子。京都嵯峨の自宅で。仁左衛門の緑内障のこと。昭和56年の国立劇場で『菅原伝授手習鑑』の「菅丞相」を演じた頃、視力の変調に気がついたこと。「昨日見えていた舞台のふすまの柄が、今日は見えない」と言う仁左衛門の言葉。 昭和63年11月7日。「芸談をきく会」の集まり。その4日前から仁左衛門さんは国立劇場で『桐一葉(きりひとは)』の片桐且元(かたぎりかつもと)を演じている。仁左衛門は「年老いて悲しいのは、教えていただいた方々がなくなったことですね。友人もほとんどいなくなった・・・」と寂しげに語る。 読売テレビの番組「TIME 21」で仁左衛門を紹介する回『仁左衛門一家の365日の奮闘記』の放送が始まる。「きく会」の人たちと一緒に見る。昭和62年の京都の顔見世『寿曽我対面』の場面、夫人と嵐山の桜を楽しむ仁左衛門が映し出される。 この7日後、仁左衛門は脳梗塞で倒れた。しかし40日ほどで回復、12月23日から南座の顔見世に出演する。『堀川波の鼓(ほりかわなみのつつみ)』の小倉彦九郎の役である。 『堀川波の鼓』は近松門左衛門作、前3段。因幡の家中彦九郎の妻お種(おたね)が、夫の江戸詰の間にたった一度だけ姦通してしまう。それを知った床右衛門によって噂が広がる。妊娠したお種は自害し、涙に暮れた彦九郎は姦通相手の源右衛門を討つという悲劇。仁左衛門の復帰で、南座には報道陣が殺到した。 |
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| 彦九郎 | 仁左衛門 | |||||||||||
| お藤 | 秀太郎 | |||||||||||
| 文六 | 進之介 | |||||||||||
| ゆら | 竹三郎 | |||||||||||
| お種 | 梅幸 他 | |||||||||||
| 翌平成元年2月、名古屋の御園座で「荒川の左吉」の相模屋政五郎を演じ、3月には歌舞伎で『女殺油地獄(おんなじごくあぶらのじごく)』の河内屋徳兵衛を演じた。 3月6日、4ヶ月ぶりの「芸談をきく会」。今までにとても嬉しかったことを語る仁左衛門。1つは「仁左衛門歌舞伎」の初日のこと。「仁左衛門歌舞伎」の第1回公演は昭和37年の夏で、それ以降昭和42年まで合計5回の公演が行われた。当時、関西での歌舞伎公演はまれで不振を極めていた。復興を目指した仁左衛門が私財を投じて自主公演を打った。不安だったが、お客さんが沢山来てくれて本当に嬉しかった。そして脳梗塞で倒れた後、退院後最初の舞台に立てた時の喜びを語る。 10月、歌舞伎座での『恋飛脚大和往来(こいのたよりやまとおうらい)』の「新口村(にのくちむら)の場」で孫右衛門を演じる。公演5日目に,仁左衛門はめまいのため,花道から落ちてしまった。だが最後まで演じた。翌10月17日から休演。しかし10月30日からの京都南座の顔見世には『鬼一法眼三略巻』の「菊畑(きくばたけ)」の鬼一を演じた。この顔見世のあと南座は改築されることになっていた。 |
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| 『鬼一法眼三略巻』 「菊畑」 | ||||||||||||
| 鬼一法眼 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 皆鶴姫 | 松江 | |||||||||||
| 智恵内 | 孝夫 他 | |||||||||||
| 義太夫 | 竹本喜太夫 鶴澤寿治郎 |
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| 初日の舞台で、仁左衛門は第8回真山青果賞を受ける。翌平成2年6月、大阪中座でふたたび「新口村」の孫右衛門を演じた。11月には歌舞伎座で、3代目中村雁治郎襲名披露の「口上」と『寿曽我対面』の工藤を務めた。 12月は、再び『対面』の工藤で、京都の顔見世の舞台に立った。南座は改装中のため、祇園の歌舞練場が舞台となった。 |
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| 工藤祐経 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 曽我太郎 | 我當 | |||||||||||
| 曽我十郎 | 秀太郎 | |||||||||||
| 化粧坂の少将 | 家橘 | |||||||||||
| 小林朝比奈 | 富十郎 | |||||||||||
| 大磯の虎 | 我童 他 | |||||||||||
| 平成3年4月5日、「芸談をきく会」の集まりに出かける。『廓文章(くるわぶんしょう)』の吉田屋の藤屋伊左衛門について話す。仁左衛門が初めて伊左衛門を演じたのは11歳の正月のこと。以来17回演じている。父から教わった伊左衛門は、8代目仁左衛門のあたり役であった。仁左衛門にも、その芸風が受け継がれている。77歳の時、南座の顔見世で一世一代の伊左衛門を演じた。しかし、83歳の時に請われて、NHK古典芸能鑑賞会でさらに一回だけ演じた。 | ||||||||||||
| 『廓文章』 | ||||||||||||
| 伊左衛門 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 義太夫 | 竹本喜太夫 鶴澤寿治郎 |
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| 蔭囃子 | 鳥羽屋里長 松島寿三郎 |
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| 「リアルになるんだな、年をとると。芸が・・・。写実に近くなるんですね」 | ||||||||||||
第5部 |
「孫右衛門の巻」 |
(1時間26分) |
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平成元年10月、歌舞伎座で『恋飛脚大和往来』が上映された時、仁左衛門が「封印切(ふういんきり)」と「新口村(にのくちむら)」の稽古を見る姿と、孫右衛門を演じる姿の記録。『恋飛脚大和往来』は、宝永8年(1711年)に大阪竹本座で初演された近松門左衛門の浄瑠璃『冥途の飛脚』がもとになっている。宝永7年に忠兵衛と言う男が、女のために公金横領をして牢死したという実話を脚色したもの。「封印切」の内容は次の通りである。大阪の三度飛脚屋(江戸と間で金の輸送をする飛脚)の亀屋忠兵衛は、愛する遊女梅川(うめかわ)を身請けするため、手付けの金50両を丹波屋八右衛門から借りたが、後金が続かない。預かった公金300両を懐に入れたままの梅川のもとへ立ち寄った忠兵衛は、八右衛門の悪口雑言を聞いてカッとなり、思わず300両の封印を切ってしまう。封印をきれば横領とみなされ死罪である。覚悟を決めた忠兵衛は梅川を身請けして故郷の大和へ逃げる。「新口村」は、忠兵衛が実父孫右衛門の住む故郷大和国新口村へ向かうくだり。追手の目を忍んで新口村に辿り着いた2人は雪の中を歩く孫右衛門と出会う。養母亀屋妙閑への義理から名乗り合えない孫右衛門だったが、2人を逃がしてやる。 第5部の冒頭の場面は、昭和63年4月6日、歌舞伎座の楽屋。仁左衛門の写真集『風姿』が出版された折のインタビューの光景である。出席者は、仁左衛門、我當、秀太郎、孝夫、進之助、太郎。聞き手は水落潔。 同年11月14日、仁左衛門丈は脳梗塞で倒れただが、12月には舞台に復帰した。その翌年の記録。86歳になった仁左衛門は視力障害も進み、ほとんど視力を失っていた。 |
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| 『恋飛脚大和往来』 「封印切」 「新口村」 | ||||||||||||
| 忠兵衛 | 片岡孝夫 | |||||||||||
| 梅川 | 中村雀右衛門 | |||||||||||
| おえん | 片岡我童 | |||||||||||
| 治右衛門 | 市村吉五郎 | |||||||||||
| 八右衛門 | 片岡我當 | |||||||||||
| 孫右衛門 | 片岡仁左衛門 | |||||||||||
| 義太夫 | 「新町井筒屋の場」 竹本綾太夫 豊澤時若 「新口村の場」 竹本米太夫 豊澤瑩録 |
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![]() 平成元年9月29日、歌舞伎座にて稽古1日目。忠兵衛の孝夫と八右衛門の我當に、稽古をつける仁左衛門。そして孫右衛門の稽古をする仁左衛門。 平成元年10月1日、稽古3日目は舞台稽古。視力の弱い仁左衛門のために、花道の端に目印の赤いランプがセットされた。しかし、仁左衛門にはもう見えていなかった。 平成元年10月5日、歌舞伎座。本舞台。翌日、仁左衛門は花道から落ちたが、終わりまで演じ通した。翌平成2年6月、大阪中座で仁左衛門は再び孫右衛門を演じたが、その時は舞台の上手から登場した。 |
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| 中座公演の共演者は | ||||||||||||
| 梅川 | 秀太郎 | |||||||||||
| 忠兵衛 | 孝夫 | |||||||||||
| 協力 | 松竹株式会社 中村雀右衛門 『恋飛脚大和往来』に出演された方々(平成元年10月 歌舞伎座公演) |
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| 撮影 | 西尾清 宗田喜久松 |
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| 撮影助手 | 佐藤和人 | |||||||||||
| 録音 | 滝澤修 | |||||||||||
第6部 |
「登仙の巻」 |
(2時間38分) |
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| 仁左衛門、88歳から90歳で亡くなるまでの舞台、生活の記録を収めたパート。 平成3年11月、新装なった京都の南座での顔見世興行が行われる。出し物は『桜門五三切(さんもんごさんのきり)』。 |
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| 石川五右衛門 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 左忠太 | 進之助 | |||||||||||
| 右忠太 | 孝太郎 | |||||||||||
| 真柴八吉 | 梅幸 | |||||||||||
| 義太夫 | 竹本喜太夫 豊澤瑩若 |
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| 平成4年2月、南座での『江戸絵両国八景(えどりょうごくはっけい)』「荒川の佐吉」で相模屋政五郎を演じた。 | ||||||||||||
| 佐吉 | 孝夫 | |||||||||||
| 辰五郎 | 勘九郎 | |||||||||||
| 卯之吉 | 吉田 亮 | |||||||||||
| お新 | 時蔵 | |||||||||||
| 政五郎 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 仁左衛門は、この政五郎の演技で真山青果賞を受けた。三度目の受賞である。6月には歌舞伎座で同じ役を演じた。 平成4年10月、名古屋、御園座での『元禄忠臣蔵(げんろくちゅうしんぐら)』の「御浜御殿網豊卿(おはまごてんつなとよきょう)」で新井勘解由(新井白石)を演じる仁左衛門。 「御浜御殿綱豊卿」は真山青果の作。初演は昭和15年。 |
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| 徳川綱豊卿 | 梅玉 | |||||||||||
| お喜世 | 松江 | |||||||||||
| お古字 | 玉太郎 | |||||||||||
| 新井勘解由 | 仁左衛門 | |||||||||||
| この年、仁左衛門は文化功労賞に選ばれる。 平成4年11月23日、歌舞伎座で『桜門五三桐』の五右衛門を演じていた仁左衛門さんが、久しぶりに「芸談をきく会」に出かける。「御浜御殿綱豊卿」について語る。 平成4年12月、南座の顔見世『菅原伝授手習鑑』の「車引(くるまびき)」 仁左衛門の顔見世出演は連続40回目を数えた。舞台で表彰状を受けとる仁左衛門。 |
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| 義太夫 | 竹本喜太夫 豊澤時若 |
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| 梅王丸 | 我當 | |||||||||||
| 松王丸 | 孝夫 | |||||||||||
| 杉王丸 | 進之助 | |||||||||||
| 桜丸 | 秀太郎 | |||||||||||
| 藤原時平 | 仁左衛門 他 | |||||||||||
| 21月20日夜、結婚62年目のお祝い。親しい人たちが集まった。ただただ感謝の言葉を繰り返す仁左衛門。自ら乾杯の音頭をとる。 平成5年2月、東京明治座が新築開場する。仁左衛門は柿落としの『寿式三番叟』の翁を舞う。 |
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| 千歳 | 尾上梅幸 | |||||||||||
| 翁 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 三番叟 | 市村羽左衛門 長唄囃子連中 |
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| 平成5年3月、明治座にて『寿曽我対面』 | ||||||||||||
| 曽我五郎 | 富十郎 | |||||||||||
| 曽我十郎 | 雁治郎 | |||||||||||
| 小林朝比奈 | 我當 | |||||||||||
| 近江小藤田 | 進之助 | |||||||||||
| 八幡三郎 | 愛之助 | |||||||||||
| 化粧坂の少将 | 松江 | |||||||||||
| 鬼王新左衛門 | 梅玉 | |||||||||||
| 大磯の虎 | 芝翫 | |||||||||||
| 工藤祐経 | 仁左衛門 他 | |||||||||||
| 明治座新装開場披露の「口上」 | ||||||||||||
| 平成5年4月、歌舞伎座の「御浜御殿綱豊卿」で新井勘解由を演じた。8月、京都嵯峨の自宅にて、喜代子夫人が『鬼一法眼三略巻(きいちほうがんさんりゃくのまき)』の「奥庭(おくにわ)」の台本を仁左衛門がかたわらで読み上げている。11月に顔見世での上演が決まったため、その準備である。 「芸談をきく会」の人たちが、片岡家を訪れる。南座での顔見世、「奥庭」と『八陣守護城』について語る仁左衛門。 |
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| 平成5年11月、京都南座での『鬼一法眼三略巻』の「奥庭」 | ||||||||||||
| 義太夫 | 竹本巽太夫 豊澤重松 |
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| 鬼一法眼 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 智恵内 | 我當 | |||||||||||
| 皆鶴姐 | 秀太郎 | |||||||||||
| 源牛若丸 | 雁治郎 | |||||||||||
| 平成5年12月16日、京都南座での『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』の「湖水御座船(こすいござぶね)の場」に佐藤肥多守正清(さとうひだのかみまさきよ)として出演。『八陣守護城』は佐藤正清こと加藤清正毒殺の伝説を劇化したもの。 | ||||||||||||
| 義太夫 | 竹本巽太夫 鶴澤泰二郎 |
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| 佐藤正清 | 仁左衛門 | |||||||||||
| 斑鳩平次 | 進之助 | |||||||||||
| 正木大介 | 愛之助 | |||||||||||
| 忍びの侍 | 新七 | |||||||||||
| 鬼鹿毛藤内 | 松之助 | |||||||||||
| 轟 軍次 | 十蔵 | |||||||||||
| 鞠川玄蕃 | 坂東吉弥 | |||||||||||
| 雛衣 | 雁治郎 他 | |||||||||||
![]() 仁左衛門はこの舞台を12月22日までつとめあげた。 最後の舞台から94日目、平成6年3月26日、 仁左衛門は京都嵯峨の自宅で亡くなった。満90歳であった。 墓地は池上の本門寺。墓参する片岡家の人たち。 |
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| 協力 | 松竹株式会社 株式会社 明治座 株式会社 御園座 |
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| 製作 | 工藤充 | |||||||||||
| 演出 | 羽田澄子 | |||||||||||
| 撮影 | 西尾清 宗田喜久松 佐藤和人 |
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| 録音 | 滝澤修 | |||||||||||
| 協力スタッフ | 松山比呂子 桜井知之/北條豊/相馬健司 太田敏裕/菊池信之/戸部政明 アオイスタジオ 島田プロダクション IMAGICA |
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