「モゥモ チェンガ」 製作の動機
岩佐 寿弥
第二次世界大戦が終わるころまで、チベットは、世界の国々にとって、
「ヒマラヤの向こうの不思議の国」だった。
チベット自身が鎖国政策をとっていたため、なおさら好奇の眼は光ったことだろう。
1949年隣りの中国で、共産党による革命が成功し、新しい中国が誕生した。その政権は、
チベット人の意志とは関係なく、「チベットは中国の一部」と宣言し、チベットを侵攻した。
この軋轢は1959年に頂点に達し、多くのチベット人がヒマラヤを越えて、インド、ネパールに脱出した。
こうしてチベットの難民の歴史が始まった。現代世界に散らばっているチベット人難民は13万人に及ぶという。
5年ほど前、私は偶然ネパールに住む一人のチベット人難民と知り合った。やがてその家族や友人達とも親しくなった。
難民とはいっても、彼らには祖国を離れて40年以上の歴史がある。
当初、私の眼には彼らはネパールに暮らす極く普通の生活者にみえたのである。
チベット人は顔や姿そして感情までもが日本人と似ている。だが「彼らには卑屈とか媚びへつらい、
あるいは自己嫌悪といった感情がないのではないか?」と思わせるところがあって、その点が我々日本人と決定的に違うのである。
このような人間を生み育てるチベットの文化とはどんなものであるのか?
私はだんだんと「チベット」の深みにはまっていった。そのうちに、あの神々の住まう「世界の屋根」から、
仕方なく異国の下界に降りたった難民達が、
40年以上の歳月を経てなお自分達の文化を大切に抱きしめている生活ぶりが、私には美しく見えてきたのである。
映画による「チベット」への旅は、このとき始まったといえる。
性急な近代化とグローバリゼーションの波に洗われ、世界中の人々が、自身の文化の根を失いつつあるとも言える現代に向かって、
自ずと問いかけてくる彼等の生活・・・それは人間の品位とはなにか、という問いのように思えてならない。
「モゥモ チェンガ」の物語(104分)
ナレーター 吉行 和子
みなは私を「モゥモ チェンガ」と呼んでいます。モゥモはお婆さん、チェンガは満月。つまり満月という名の婆さんですよ。
あの時、チベットからヒマラヤを越えてネパールやインドに命からがら逃げ出してもう40年以上の歳月が経ちました。
今、私が住むこのネパールの難民キャンプは、ヒマラヤ山脈が遠望できる風光明媚なところです。ここで子供たちや孫たちに至る三世代、1200人だいっしょに暮らしています。お寺も、学校も、病院もあるのです。あの時まだ小さかった私の息子や娘たちにもそれぞれ子供ができて、今では一家の中心として働いております。私は娘たちや孫たちに囲まれて
幸せに暮らしていますよ。それもこれも仏様のお陰です。
私の日課は朝夕のお寺参り、百回、二百回の五体投地、そして一日中称える真言・・・何より大事なのは信仰です。
後は同じキャンプのお年寄りと話したり、台所の仕事をしたり、極々平穏な毎日を過ごしております。
このキャンプの多くの家庭がそうなのですが、私の家でも娘夫婦はチベットの土産物を外人さんに売って生活を支えています。
近ごろはすっかり売れなくなって、娘達は将来を案じていますが、何とかなるものですよ。
一年で一番楽しく賑わうのはお正月。チベットの暦のお正月ですから、私達のキャンプの中だけのお正月ですよ。
一ヶ月も前から一家そろって準備をします。お祝いの仕方は、お寺でも家庭でもすべてチベット式ですよ。チベットに帰れなくなって、何十年経っても私達はチベットを忘れる事はありません。このチベットのお正月は外人さんには珍しいものだそうですね。
お正月が終わってしばらくして、親戚の若い夫婦が「モゥモ、ダライラマ法王に拝謁するために、インドのダラムサラへ一緒にいかないか?」と誘ってくれました。
私は思い切って誘いにのりました。長い列車とバスの旅でした。
ダラムサラでは、長い間会っていなかったインドに住む兄やメイが会いにきてくれました。
そしてついにダライラマ法王に拝謁する日がやってきました。私は法王に、何十年もの間苦しんできた、その心のうちを吐露したのですよ・・・
私の人生で一番楽しかったこと?そりゃ、この一ヶ月のインドの旅ですよ。