キャンプにて

                    岩佐 寿弥
 
 
私は、ネパールのポカラ近郊にある「ターシーパルケル」という1200人が住まうチベット難民キャンプでカメラマンとともに延べ数か月を過ごした。ここでの朝の風景は、キャンプ内にあるお寺への老人たちの参拝、小学生の登校、そしてキャンプのゲートに迎えに来るスクールバスを待つ大勢の中高生の姿である。それから少し時間が経つと、キャンプの広場で、二十歳を越えると思われる同じ顔触れの何人かの青年が朝からクリケットをして遊んでいるのによく出あうことがあった。日本では見られぬ風景である。聞いてみると、どこにも行くところがないから・・・ということだった。彼らは皆、日本でいえば高校をでた青年たちである。恐らく彼らの一人一人は、これからの進路を考え動いているのだろうけれど、とりあえず暇な時間をもて余しているのである。かつては、チベットの土産物がよく売れ、その家業を手伝えたのであるが、いまではそれらの店は閑古鳥が鳴いている。チベットの物産もすでに世界に出回り、何回もやってくる旅行者にとって、もう珍しいものではなくなった。その上ネパールの政情不安は旅行者そのものを激減させたのである。40数年の歴史を持ち、3世代にわたって生きてきたチベット難民たちが、傍目にはこの地に根を張って生きているようにみえるけれども、土地も国籍もないかれらは今日もあやふい根無し草の日々を暮しているのである。
 ヒマラヤを越え、インドやネパールにたどりついた難民第一世代の生活は、まずその地の道路工事の労働者として働くことから始まった。それは筆舌につくせぬ厳しい生活、しかも熱帯の地という環境の激変に堪えられず死者が続出した。やがて伝統の絨緞織りとその販売に着手した。上質の絨緞はよく売れて彼らの生活を支えた。難民第二世代が生活の大黒柱になったころには、この絨緞ブームも去る。次に彼らは、大量輸送時代に入って生じたネパールへのトレッキングブームに適応してチベットの土産物の商売を始め成功させるが、もうその波も引いてすでに久しい。しかしとにもかくにも今日まで祖国への帰還を夢見て生き抜いてきたのには、チベット人の仏教に裏打ちされた楽天的な強さ、持って生まれた商才、女性のバイタリティー、そして相互扶助・・・こうしたチベット人の特徴がモノを言ったにちがいない。

 キャンプには、幼稚園があり、小学校があり、キャンプの外にはスクールバスで通えるチベットの中・高校がある。どの教室を覗いても心地いい真剣さが漲っている。1959年にチベットを脱出したダライラマ法王がいち早く心配したのは難民の子供達の教育だった。当時のインド首相ネルーの協力の下に、すぐさまチベット難民の子弟たちのためのTCV(チベット子供村)がインド、ダラムサラに創設され、さらに各地にチベット人の学校が創られていった。教育内容は、チベットの伝統文化をしっかり身に付けるとともに、英語教育を始め今日を生き抜くための時代に即応した教育である。ネパールのこのキャンプにもその意思が見事に貫かれた教育が施されているのである。しかしこうした教育を受けて幸せに育った若者たちが、社会に出てそれを活かそうとするときに、はたと難民であることの厳しさに直面する。
 一人一人の若者は学校を出た後、さらに海外に生きる術を求めたり、夫々独自の道を探しながら険しい道を歩んでいる。そして「難民は強くなくちゃ生きていけないよ!」とコブシを上げ、ハッハッハと楽しげに笑うのだ。「モゥモ チェンガ」の物語は簡単に終わりそうもないのである。

 
 今、アフガン、イラクと続く戦乱のなかで、それらの国の人々が続々と難民となって祖国を離れていく。そんななかでチベットの問題は遠ざかっていくようにみえる。しかし現実はなにも解決されないまま、当事者であるチベット難民の生活は続いている。チベットとイラクの問題は「難民」という一点で世紀を越えて繋がっているのである。 
 チベットの難民は半世紀にわたって難民生活を続け、三つの世代を生き抜いてきた。そして今も祖国への思いを絶やすことはない。それでいて彼らは、敵と闘って勝利するという勝ち負けの発想をもたず、チベット仏教にもとづいた慈悲の心によって、この事態を粘り強く解決させようとしているのである。そしてチベットへの帰還の日が来ることを信じて疑うことがない。従来の民族間の抗争に類例のないこの闘いぶりは、今日の絶望的にさえ見える世界の動向に、小さな、しかし根強い希望の光を覗かせてくれる。    

 
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