早池峰の賦

日本映画/1982年作品/カラー/上映時間3時間5分
日本映画ペンクラブ特薦/エキプ・ド・シネマ提供

 


●解説●
映画「早池峰の賦」は、早池峰山麓に住む人々の、指揮の移ろうままに過ぎ行く素朴で厳しい暮らしを、端正なカメラで捉えつつ、山伏神楽が村人の山に対する信仰心とともに、今も生き続けている姿を感動的に描いたドキュメンタリーで、上映時間3時間5分というのは日本では記録的な長さである。映画の舞台となった早池峰山は岩手県北上山地の主峰で、古くから人々の信仰を集めた山である。この山の修験者によって伝えられたという山伏神楽が、早池峰山麓の岳・大償という二つの村落(大迫町)に伝承されていて、早池峰神楽と呼ばれている。

 




「早池峰の賦」の成り立ち

      映画監督  羽田 澄子

 想えば昭和39年の秋、新聞の紹介記事に惹かれて、大償神楽を見に行ったことが、「早池峰の賦」を生み出すきっかけであった。私は何の予備知識もない観客の一人だったが、注連縄でかこい、後に一枚の幕を張っただけの小さい舞台がまず魅力的だった。太鼓と手びら鉦と笛が聞こえだすと、心が浮き立った。さっと幕をはねて、舞手が登場する鮮やかさにも目を奪われた。つづいていかにも山伏が舞ったであろう、颯爽と躍進的でしかも祈りが込められた舞に、ものを知らない私は「日本にもこんな芸能があった」と驚くばかりだった。翌年の2月、私は大償に出かけた。後にこの作品で早池峰山の撮影をお願いした大先輩、瀬川順一カメラマンと一緒だった。やたらに感動して神楽の話しをした私に、「それはね、僕の故郷の神楽ですよ」と瀬川さんは言った。瀬川さんは大迫町の隣の東和町の出身だったのだ。
たちまち一緒に行くことになってしまった。

大償は一面の雪に埋もれ、茅葺の大きな屋根も真っ白に雪をかぶっていた。宿をお願いした大償神社の別当のお宅に、日暮れとともに神楽の人々が集まってきた。そしてたった二人の観客のために、神楽は鳥舞、翁、三番叟、八幡舞、岩戸開きと、正式な順を追ってはじめられたのである。適当なものを12曲見せてもらえればという程度の考えで私はいた。しかし神楽はまず神に捧げるものである。神に捧げる形をくずして、適当になどとは考えもしないらしい人々の前で、私はすっかり恐縮して座っていた。
 翌日は門打ちに歩く神楽の人たちに付いて歩いた。雪の中を権現様を荷い、太鼓をかつぎ、笛を吹きながら、曲屋から曲屋へと神楽衆は歩いた。曲屋の土間は暗かった。その土間に太鼓が響き、権現舞が始まると、家の人々が手を合わせて蹲った。その人々の前に権現様は高くかかげられ、歯をかみならし、金色の目を輝かした。土間にはこの世のものとは思えぬ時間・空間が現出した。権現様と早池峰山と人間との間に、魂の交流する場が現れたのである。
この時私は、この土地と、この人々と神楽とをいつか映画にしたいと密かに思った。
しかし、映画にする自信はなかなかもてなかった。10余年が過ぎた。ようやく気持ちが定まって、再び大迫町を訪れ、村田町長にお会いしたのは、昭和5269日のことである。町長は私の意図に賛成してくださったが、映画の製作に入れたのはさらに2年後のことであった。

 神楽がどうなっているかが不安だったが、健在だった。大償は勿論、東京で聞いていると、一時は存続を危ぶまれた岳も、若手が加わって健在だった。しかし村々のたたずまいに昔の面影は無かった。舗装された道路、赤や青のトタン屋根、テレビや自動車の普及、それらは神楽を支えてきた精神風土を徐々にくずそうとしていた。やむをえない時代の変化である。
製作に入って真っ先に手をつけたのは、曲屋の取り壊しの撮影である。「南部の曲屋」といわれた著名な民家は、年々取り壊されて、もう殆ど見られない。また映画に登場する南部葉の栽培も、2年後には無くなった。危ういところで映画は“ふるさと”の姿をとどめた。
 それにしても、この映画を作ることができたのは、募金活動をしてでも作ろうと、決意してくれた村田町長のお陰である。それから趣旨に賛同して募金に応じてくれた人々、撮影に協力してくれた神楽衆をはじめとする町の人々、製作を支えてくれた岩波映画、報酬を度外視して参加してくれたスタッフ、そしてこれからさまざまなことをアレンジしてくれたプロデューサーと、実に多くの力が結集されてこの作品は出来上がった。実は町との約束は50分の作品であった。これは「早池峰神楽の里」となって完成した。しかしこの作品に収めきれない多くの素材を何とかしたかった。町との話し合いの結果、素材を全面的に生かして、3時間15分の作品を作った。町の記録として保存してもらいたいと思ったのである。
これが、川喜多かしこ、高野悦子のお二人の決断で、図らずもエキプ・ド・シネマの作品として取り上げられることになったのである。一般の観客を想定して、若干のカットをし「早池峰の賦」が出来上がった。
上映活動に苦労している記録映画界のものにとって、こんな幸運は考えられない。この幸運に応える結果が生まれるようにと、私はいま、ひたすら祈っているのである。



早池峰麓の山伏神楽         
        
         民族芸能研究家 本田 安次
 山伏神楽・権現舞・番楽・獅子・舞等の名に呼ばれている神事芸能が、岩手・青森・秋田・山形の4県に広く分布している。もと山伏たちが、祈祷の一手段として修練し、伝承してきたもので、太鼓、笛、銅 等の激しい拍子に合わせ、足拍子もとどろに踏み鳴らしながら、中世紀風の色濃い芸能を演ずるものである。
 以前は霜月(旧暦11月)の頃になると、山伏およびそれにゆかりの人たちが一団をなし、持場の村々を月余に亘ってめぐり(所によっては数ヶ月を要した)悪魔祓いや火伏せの祈祷に、権現と崇める獅子頭をまねし、家々の台所にまで入って祈祷をした。その泊り泊りには、宿と定められた民家の一間を舞台とし、村人たちが参集、団欒のもとに、一方に舞幕を張り、幕かげを楽屋として一種の古風な能が演ぜられた。村人たちはこの権現の訪れを年々首を長くして待っていたという。此処辺では神楽の宿になることを少なからず喜ぶ風がある。娘のいる宿では、よくとっておきの、もしくは仕立て下ろしの振袖などを出してこれを着て舞ってもらうことがある。こうした着物を着れば、娘が災いを除ける、病気にかからない、産が軽いなどといわれている。
 この芸能は翁猿楽がもとになっているようであるが、代表的な組である岩手県早池峰麓のものによると、はじめは必ず式六番として祈祷の舞を演じ、後、家々によって所望の曲を数番演じる。その演目は各所ほぼ三十数番を伝え、各所を通じては百数番、外に獅子の舞色々、狂言数十番に及んでいる。
 早池峰麓の式舞には昼夜の別があるが、昼神楽では露払いの鳥舞を最初に、翁、三番叟を演じそれに八幡舞、山神舞、岩戸開の神舞を配している。式外の演目はほぼ5種類にくくることが出来るかと思うが、1は女舞の機織、蕨折、天女、おだまき、金巻等、2が番楽舞の曾我、鞍馬、八島、信夫等、3が神舞の五穀、水神舞、天降り、悪神退治、天王等、4が荒舞の注連切、普将、龍天、勢剣、5が散楽の小獅子舞、盆舞、杵舞等である。今中央で行われている能が語りを主とし、動きをなるべく控えようとしてきたのに対し、これは舞の要素を出来るだけ豊富にと工夫が積まれてきた。陶酔の神楽である。
 早池峰麓の岳も大償も、今では回り神楽をやめ、年直し、新築、嫁とり、快気祝い、その他の祝い事の折、招待されて演じている。また早池峰神社の祭りは近年は81日であるが、その前夜あるいは当日、神社の神楽殿で各所の神楽が奉納になる。
 詳しくは岩手県稗貫郡大迫町内川目字岳の集落は、早池峰山の西南麓にあり、このお山への一方の登り口に当たり、此処に早池峰神社の本社がある。「郷村志」によると、寛永12年(1800年)の頃には此処には74件の家があったが、維新まで踏み止っていたのは、お山の祭祀一切を司っていた、岳妙泉寺(和州小池坊末寺、盛岡永福寺支配、南部家の祈祷寺で、禄高200石を領していた)を除くと、わずか11軒で、それも皆神事に携わっていた家のみであった。その内訳は六部が6軒、下禰宜4軒、神子の家が1軒であった。今はそれより僅かに増え、15,6軒になっている。岳の神楽はもとこの六部が下禰宜も加えて演じていたものである。
 内川目字大償は岳より西南法に下って約14キロの沢にある集落で、大償権現を祀り、戸数は15、「郷村志」に見える寛政のころより1軒減じている。別当家をはじめ大方佐々木氏を名乗り、農に従事し、もしくは公務員を務めている。神楽は主としてこの集落の人たち皆が携わってきたが、もとここに佐々木氏を名乗る宝蔵院なる法印がおり、屋敷名を野口と言い、神楽は主としてこの法印が伝えていたらしいことは、天保6年(1835年)にここのを移した和賀郡東晴山の神楽の奥許に「大償内野口家流式」と見えているので明らかである。
 山深い神楽の里にも時代の波はひしひしと押し寄せてきている。こうした早池峰の里を、羽田さんは神楽組と、それを受け入れ誇りにもしている里の人々と、その生活や時代相を、神楽をないまぜにしながら克明に、美しく描き出している。正に稀なる作品というべきであろう。

* 羽田澄子著 『早池峰の賦』は平凡社から出版されています。(税込み2625円です)

* 大迫町のホームページもご覧ください。