ハルハ河の英雄的な頁
製作 モンゴルキノ 解説 T・チミッド
撮影 Z・スフパートル ナレーター J・バトバヤル
録音 B・サンボー 照明 B・セレンゲ
軍顧問 Ch・プレブドルジ中将 映像責任者 G・エンヘバヤル
T・オソル少佐
監修 D・ダムディンドルジ大佐
編集 S・バーサンフー
合成技術 A・プレブドルジ
構成 D・トゥメンバヤル
P・ナラントヤー
日本語版製作 株式会社 自由工房


 1933年(昭和14年)5月から9月にかけて、日本及び満州軍とモンゴル・ソ連軍が国境線をめぐって戦った。
 日本軍は機甲部隊を主力とするモンゴル・ソ連軍に、文字通り肉弾を持って対戦し、多くの人命を空しく失ったのみで敗北した。日本はこの闘いを「ノモンハン事件」と呼び、その真相は国民に知らされることはなく、2年後には再び肉弾のみを近代兵器に立ち向かわせる第2次世界大戦へと突入したのである。
 モンゴルは1924年建国以来の領土侵犯に対する戦いとして「ハルハ河戦争」と呼び、国民はその激戦と勝利を等しく記憶している。
 この映画はモンゴルの映画人が1989年に戦場を訪れた日本人の慰霊団とモンゴルの人々との交歓を契機に作り上げた記録映画である。なお、50余年を経た「ノモンハン事件」について約13分の解説を本編に先立って上映するよう製作した。
株式会社 自由工房


 「ノモンハン」は太平洋戦争における日本の敗北の姿をそのまま前もって示した。空、陸の近代兵器を総動員して展開された近代戦の見本であったとされ、戦士研究家の注目を浴びてきた。敗戦24年後、太平洋戦争の記憶さえうすれかかって行く今日、日本を遠く離れたアジアの内陸で、日本国民の知らぬうちに、知らぬうちに無残な形で敗北し、その全貌すら多くの国民に知らされていないこの事件ならぬ一大決戦が想起される機会がないとしても無理からぬことである。だが、モンゴルの人民にとっては、戦闘は彼らの目の前で、領土の上で演じられたのであり、彼らの存在そのものが脅威にさらされた、今世紀最大の戦いであった。(中略)

 「ノモンハン」の日本軍将兵は、翌整備されたモンゴル・ソ連軍の近代兵器に、劣悪な戦備と補給のもと、文字通り鋼鉄に肉弾をぶつけ戦った。しかも第一線の指揮官のあるものは迫られて自決させられたというではないか。今、私の手元に、陸軍大尉・草葉栄著 ノモンハン戦車殉滅記「ノロ高原」がある。1941年2月の諸般で同5月にはすでに410版を出している。表紙は炎上する戦車、扉には「ノモンハン桜」の絵があり、いずれも藤田嗣始が描いたものである。われわれの「ノモンハン」はこのむなしい戦記によって代表されている。ツェデンバル首相をはじめ、モンゴル政府の首脳たちは、はるばる訪れた国会議員を歓迎し、アジアの平和と繁栄をかさねて説いた。だが、この好意に満ちた歓迎の中、日本は、したがって私は、このままの「ノモンハン」の認識を抱えたままで、モンゴルの人の前に現れていいものだろうかと考えた。「ノモンハン」は戦士研究家のてなぐさみであってはならない。(中略)
 モンゴルといえば「ジンギスカン」を思い「蒼き狼」によって気ままなイメージを描くかわりに、今われわれは「ハルハ河」を想起しなければならない。それがモンゴルを知る手がかりである。
 故国を遠く離れた炎熱の草原で―ソ連軍のある戦車兵は気温47度に達したと語っている。−のどを潤す一滴の水もなく息絶えた日本人たちが眠るこの地を訪れ、不戦を誓い合える日がきっとやってくるだろう。少なくともそうさせたいと「ノモンハン」を知らないわれわれは思うのである。
(『世界』 1969年11月号、『草原と革命』恒文社 1984年所収、同時代ライブラリー『モンゴル 民族と自由』岩波書店 1992年所収)


 −以上の文章を書いた時、私はよもや「ノモンハン」地を本当に踏むことが出来るようになるとは考えていなかった。ただモンゴルの人たちに、こうした日本人の気持ちが伝わればと思ったのである。ところがそれからちょうど20年の後にそれが実現した。1989年のまず6月末、ウランバートルに、モンゴル・ソ連・日本の3カ国の研究者が集まってシンポジウムを行った後、飛行機で現地に向かった。一行に加わった私は深い感慨を持ってバヤンツァガーンの丘に立った。ついで8月末には日本からも多数参加して、三国合同の平和行進が行われた。いずれの時も、1台のカメラが忙しく動き回り、私もインタビューを受けた。
 今この映画を見ると、それらのシーンがすべて登場している。今にして思えば、あのカメラはこの映画の製作者のチミッドさんの指揮で取材を行っていたのである。
1992年10月   一橋大学教授 田中 克彦