-あるダンサーの肖像-
日本映画/1985年作品/カラー/上映時間1時間47分
エキプ・ド・シネマ提供/第一回東京国際映画祭カネボウ女性映画週間参加作品
解説
「AKIKO−あるダンサーの肖像―」は、おそらくは年齢的にも精神的にも、ピークと思われるアキコ・カンダの姿が、羽田監督の鋭いがしかし全てを包容する暖かい眼差しによって、余すところ無くとらえられている。
アキコが踊り始めたのは7歳のときであった。女子大生になったアキコは、マーサ・グラ―ム舞踏団の日本公演に衝撃を受け、マーサの門をたたく決心をする。大学を中退し、アキコは19歳で一人ニューヨークへ行く。彼女はすぐに舞踏団の主要メンバーに抜擢された。こうしてマーサの元で6年間を過ごす間に、アキコは「マーサによって体全体、細胞のひとつひとつまでに、ダンサーの体に作り変えられた」という。
帰国したアキコに、マーサの影響から脱却し、自分自身のダンスを創造するための苦闘が始まる。しかし彼女独自の“ことば”を語りだしてから、彼女の足跡は輝かしいものとなった。数々の作品が生み出され、多くの賞を得る。アキコはダンサーであり、創作家であり、教師であって、彼女自身の芸術の主人公である。
内容
映画は1984年8月から、7ヶ月にわたって撮影された。この間、9月には彼女の作品「マグダラのマリア」の公演が行われたが、映画はこの公演の準備に始まり、舞台上でのアキコの素晴らしい踊りをとらえる。
だが、この映画の面目はむしろこの舞台の後にある。公演終了後のアキコ、彼女の日常生活、彼女の家族たち、母、姉、一人の息子はそれぞれに彼女への思いを語る。そして次の公演のための創作の苦悩、これらを通して映画は彼女の厳しい芸術とともに少女のように愛らしい一面と彼女の率直な人柄を浮き彫りにしていく。
「もし、言葉がこの世に無かったら、人はもっと幸せだったと思います。言葉のために人に裏切られ、余分な神経を使い、心がずたずたになります。私は言葉がないから踊りが好きなのです。」というアキコの求める踊りの世界とは―――。
AKIKO−あるダンサーの肖像を−つくって
羽田 澄子
映画を作ることは、苦しく緊張を強いられる作業である。しかし「AKIKO−あるダンサーの肖像−」を作りながら、私はそんなものを包み込んでしまう幸福な気分と、楽しさに満たされていた。
よい映画にはたいてい幸福な出会いがあるものだけれど「AKIKO」もそうである。この映画はアキコ・カンダさんの発想ではじまった。アキコ。カンダさんはモダン・ダンス界の第一人者である。その舞台は、私も何回か見ている。しかしお会いして言葉を交わしたのは、「」の8月12日のことである。プロデューサーの工藤と私は、この日、アキコ・カンダさんを久我山の稽古場に訪れた。アキコさんに紹介されて、私は驚いた。恐ろしく痩せた人である。もし病院のベットで寝ていたら、重症の患者さんといっても通るほどの痩せ方である。この人が踊るのかしら、私は頬がこけ、おしろい気のないアキコさんの顔を、思わずまじまじと眺めた。
私たちは稽古場の正面に案内された。若いダンサーが大勢いいる。レオタード姿なるものを、じかに見たのも初めてだった。みんな若いはちきれそうな体をしていて、稽古場はむんむんと眩しかった。私は努めて冷静に全てを観察しようと自分に言い聞かせていた。まだ映画を作ることが決まったわけではない。まず、ダンスを見て、話し合うことになっていたのである。
不遜な発言だけれど、ドキュメンタリーのカメラは恐ろしい力を持っている。カメラが切り取った画面には、肉眼では気付かなかったこともはっきりと捉えられていて、誤魔化しようも無い真実の姿がたち現れるのである。被写体がカメラに対抗できなければならない。
ダンスが始まった。9月の末に公演される「マグダラのマリア」のリハーサルである。うっかりするとダンスの波に呑み込まれそうになる自分を、私は一生懸命抑えていた。しかし踊りが進むにつれて、私はいつか我を忘れていた。群舞の振り付けの見事さに息をのみ、全身汗にまみれて踊るアキコさんの姿に、胸の奥が熱くなるような感動に揺さぶられた。床は彼女の汗で濡れていく。しかし踊る姿の美しさは人間とも思えない。あの細いからだの体力の極限まで振り絞って踊っている姿は、人間でありながら、人間を超えて神に近づく姿のように思えた。
打ち合わせの場に行くまで、工藤も私も無言だった。アキコさんはまるで風に吹かれてよろめくような、頼りない足取りで私たちの前を歩いている。この人、大丈夫かしら、つまずいて転ぶんじゃないかしら。私ははらはらしながら、踊る姿とのあまりの違いに驚いていた。
「ほんとうの芸術だぞ、彼女の踊りは。たいしたもんだなあ」工藤が始めて声を出した。ダンスなんてまったく関心の無かった彼がどう思ったのか。こわくて聞けないでいた私は、この言葉に目の前がぱぁっと開けていくような想いがした。向かい合って話し出すと、アキコさんはなんとも可愛らしい人だった。「アキコはね…」「アキコはね」と少し息の混じった、軽い小さい声で話した。
彼女は「マダグラのマリア」という大きな公演を控えて、前々から映画を作りたいと思っていた気持ちが、いっそう強くなったらしかった。それでも、公演の記録ということにはこだわっていなかった。それはビデオで全篇を収録することになっていたからである。いろいろ話をして、製作資金その他の条件から、50分くらいの記録映画にしようということになった。アキコさんは私たちに言った。「アキコはダンスのほかのことは何にもできないの。ダンスきりできないダンス馬鹿のアキコを撮って下さい」
彼女が私たちに頼んだことといえば、ただこれだけの事である。ただこれだけの事とはいえ、私はこの言葉を聞いた瞬間から、この作品が50分の枠には入りきれないことを予感したのだった。私たちは「50分の作品、50分の作品」といいながら仕事を始めたが、私が望んだ製作条件は過大であった。しかしプロデューサーも内心、同じ想いがあったのだろう。製作条件は次第にふくれあがっていった。
8月28日に公演のリハーサルからクランク・インしたが、フィルムはたちまち予定を超えてしまい、撮影日数も増えていった。普通なら「マグダラのマリア」ほど大きな舞台を撮れば、これが映画のクライマックスになるのが常道である。しかし工藤は私に力説した。「きみ、舞台はこの映画ではプロローグに過ぎないのだぞ。勝負は舞台のあとにある。僕たちはもっと稽古場に通おう」
50分の枠はもうどこかにとんでしまっていた。この言葉が「AKIKO」という映画の骨格を決めたのである。
私たちは稽古場にしつこく通った。はじめは私たちのことを意識して緊張していたアキコさんも、そのうち全く気にしなくなった。幸いなことに、メインカメラマンの宗田喜久松さんとアキコさんが、たちまち仲良しになった。宗田さんは新進気鋭の若手カメラマンである。私は始めて彼と仕事をしたが、工藤は昔から仕事をしていて、私も旧知の間柄であった。一見、無骨で無口だが、話をすると巧まぬユーモアがあり、気のいい、優しい人柄である。敏感なアキコさんはそういう彼を、ぱっと感じ取ってしまったのだ。アキコさんはスタッフの一人一人にあだ名をつけて楽しんでいた。宗田さんは幸いにも“宗ちゃん”だったが、私は“おかあさん”になり、工藤は“おとうさん”になり、田代啓史カメラマンは“里いもちゃん”になって閉口していた。そしてアキコさんも、カンパニーの人々も私たちがうろうろしていることが、次第に目にも入らなくなってしまったらしい。
別にドラマがあるわけではないが、この映画には、アキコさんに自分の生活を演じてもらわなくてはならない場面がいくつもあった。アキコさんは、私の注文にいつも喜んで応じてくれた。アキコさんの生活は、その肉体と同じように、ダンス以外のものを一切きりすてた単純明快なものであった。たった一間のアパート。すべての人間の絆から離れた孤独な暮らし。ゆとりといえば部屋いっぱいのぬいぐるみぐらいだろうか。私はその明快な生き方に感動したが、彼女がダンス一筋の生活をするために、切り落としてしまった生活の部分を、心やさしい多くの人々が支えていることにも感動した。これほどの才能を授かった人は、自分の才能に自分自身も奉仕しなければならず、それを認める周囲の人々も、その才能に仕えなければならない。彼女のダンスの才能は、神に選ばれて授けられたものとしか思えないものである。でも、公演のとき、舞台の袖から彼女の踊りを見ていた私は、暗い客席を前に一人汗にまみれて踊っている彼女を見て、その孤独の深さを思わずにいられなかった。
この作品の編集は、東京国際映画祭に間に合わせるために、大車輪で働かねばならない忙しい仕事になった。しかしこんな楽しい作業も珍しかった。まるで宝石磨きのようだった。私は宝石磨きのことは何も知らないけれど、おそらくこんな気持ちだろうと思う。私にとってはアキコさんという素晴らしいダイアモンドを磨きだす作業だったのである。目をつけているカットを早く切り出したくて、私はうずうずしていた。編集が進むにつれて画面は輝きを増していった。全ての画面の中心から、アキコさんの光が放射されている。そんな作品に私はしたかった。私は「わたしのアキコさん」を表現したわけだが、それがアキコさんの真実を表現したものであって欲しいと思っている。
約13時間のラッシュは1時間47分の作品になった。
アキコさんとの幸福な出会いは、国際映画祭女性映画週間への出品という幸運に恵まれ、さらに岩波ホールでの上映という幸せにも恵まれた。これらのことに力を尽くしてくださった岩波ホールの高野悦子さんに心から感謝している。
さらに、この作品の創造に力を貸してくださったスタッフの人々に深く感謝しつつ、私はみんなと一緒にこの恵まれた幸運を喜びたいと願っている。